クラシック音楽を語るうえでおさえておきたい作曲家を100人選んでみました。時代背景と音楽形式の関係がわかるように作曲家の生年順に並べています。時代区分はざっくりと参考程度に書いてあります。作曲家に関する簡単な紹介と代表曲の音源(YouTube)、作曲家に関するより詳細な解説記事(Wikipedia)へのリンクが貼ってあります。
クラシック音楽に馴染みがあるという方も、すべての作曲家を知っているか、チェックしてみてください。ド忘れしてもっと重要な作曲家を忘れているかもしれません。コメントいただけたらさいわいです。
- ルネサンス
- バロック
- 古典派
- 前期ロマン派
- 後期ロマン派
- 前期近代
- ムソルグスキー(1839-1881)
- チャイコフスキー(1840-1893)
- ドヴォルザーク(1841-1904)
- グリーグ(1843-1907)
- リムスキー=コルサコフ(1844-1908)
- フォーレ(1845-1924)
- ヤナーチェク(1854-1928)
- モシュコフスキ(1854-1925)
- シャミナード(1857-1944)
- エルガー(1857-1934)
- プッチーニ(1858-1924)
- マーラー(1860-1911)
- アルベニス(1860-1909)
- ドビュッシー(1862-1918)
- シュトラウス,リヒャルト(1864-1949)
- シベリウス(1865-1957)
- グラズノフ(1865-1936)
- 後期近代
- サティ(1866-1925)
- ジョプリン(1867(8?)-1917)
- グラナドス(1867-1916)
- スクリャービン(1872-1915)
- ラフマニノフ(1873-1943)
- シェーンベルク(1874-1951)
- ホルスト(1874-1934)
- ラヴェル(1875-1937)
- クライスラー(1875-1962)
- ファリャ(1876-1946)
- ゴーベール(1879-1941)
- レスピーギ(1879-1936)
- バルトーク(1881-1945)
- コダーイ(1882-1967)
- ストラヴィンスキー(1882-1971)
- ヴェーベルン(1883-1945)
- ベルク,アルバン(1885-1935)
- プロコフィエフ(1891-1953)
- オネゲル(1892-1955)
- ヒンデミット(1895-1963)
- オルフ(1895-1982)
- ガーシュウィン(1898-1937)
- プーランク(1899-1963)
- 二十世紀
ルネサンス
ジョスカン・デ・プレ(1450(5?)-1521)
ジョスカン・デ・プレ(Josquin Des Prez; Josquin des Prés, Josquin des Pres, Josquin Desprezとも綴る。 1450年/1455年? - 1521年8月27日 コンデ=シュル=レスコー)は、盛期ルネサンス時代のフランスの作曲家、声楽家です。本名はジョスカン・ルブロアット(Jossequin Lebloitte )。ジョスカン・デ・プレは当時の全ての作曲技法を見事なまでに意のままに操っており、存命中から既に著名な作曲家であり、現在ではその時代の最も優れた代表者とみなされています。
モテット《アヴェ・マリア》
Josquin Desprez: Ave Maria (Motet)
ジャヌカン(1485(?)–1558)
クレマン・ジャヌカン(Clément Janequin, 1485年頃 – 1558年)は、フランス・ルネサンス音楽の作曲家です。聖職者ではあったものの晩年まで不遇だったようです。ジャヌカンはシャンソンの専門家であり、このジャンルを創り出した作曲家のひとりと見なされています。ジャヌカン作品には、言葉というよりは擬音語や擬態語、例えば、無意味な言葉の羅列が鳥のさえずりといった「オノマトペー」が取り入れられています。
シャンソン集《鳥の歌》
Clément Janequin - Le Chant Des Oyseaulx
パレストリーナ(1525(?)-1594)
ジョヴァンニ・ピエルルイージ・ダ・パレストリーナ(Giovanni Pierluigi da Palestrina, 1525年? - 1594年2月2日)は、イタリア・ルネサンス後期の音楽家です。一般には「パレストリーナ」と呼ばれていますが、ジョヴァンニが名、ピエルルイージが姓で、パレストリーナは生地です。カトリックの宗教曲を多く残し「教会音楽の父」ともいわれています。
教皇マルチェルスのミサ曲
Palestrina, Missa Papae Marcelli. The Tallis Scholars, Peter Phillips
バロック
モンテヴェルディ(1567-1643)
クラウディオ・ジョヴァンニ・アントニオ・モンテヴェルディ(Claudio Giovanni Antonio Monteverdi, 1567年5月15日洗礼 - 1643年11月29日)は16世紀から17世紀にかけてのイタリアの作曲家です。モンテヴェルディの作品はルネサンス音楽からバロック音楽への過渡期にあると位置づけられています。生前から高い人気を誇り、後世には音楽の様式に変革をもたらした改革者とみなされています。最初期のオペラ作品の一つである『オルフェオ』は現代でも頻繁に演奏されています。
歌劇《オルフェオ》
リュリ(1632-1687)
ジャン=バティスト・リュリ(Jean-Baptiste [de] Lully', 1632年11月28日 - 1687年3月22日)は、フランス盛期バロック音楽の作曲家です。ルイ14世の宮廷楽長および寵臣として、フランス貴族社会で権勢をほしいままにしたようです。音楽史の観点からは、リュリはバロック音楽中期(1650年~1700年)に属します。通奏低音が曲の推進力となる典型的なバロック様式の音楽を構築し、その後のフランスのバロック音楽に深く影響を残しました。
歌劇《アルミード》からパッサカリア
リュリ: 歌劇「アルミード」 パッサカリア[ナクソス・クラシック・キュレーション #リクエスト]
ストラディヴァリ(1644?-1737)
アントニオ・ストラディバリ(Antonio Stradivari、1644年/1648年/1649年 - 1737年12月18日)は、イタリア北西部のクレモナで活動した弦楽器製作者です。ニコロ・アマティに師事し、16世紀後半に登場した楽器であるヴァイオリンの完成に貢献しました。その作品(ストラディバリウス)は約600挺現存しています。
パッヘルベル(1653-1706)
ヨハン・パッヘルベル(Johann Pachelbel、1653年9月1日(受洗) - 1706年3月9日(埋葬))は、バロック期のドイツの作曲家であり、南ドイツ・オルガン楽派の最盛期を支えたオルガン奏者で、教師でもありました。宗教曲・非宗教曲を問わず多くの楽曲を制作し、コラール前奏曲やフーガの発展に大きく貢献したことから、バロック中期における最も重要な作曲家の一人とみなされています。
カノン
コレッリ(1653-1713)
アルカンジェロ・コレッリ(Arcangelo Corelli, 1653年2月17日 - 1713年1月8日) はイタリアの作曲家で、ヴァイオリニストでもありました。彼の前半生についてはまったく知られていないようです。コレッリの器楽作品はそれまでの室内楽とは一線を画し、彼の影響はイタリア国内に留まらず、ヨハン・ゼバスティアン・バッハもコレッリの作品を研究し、コレッリの作品の主題に基づいたオルガンのためのフーガBWV.579を作曲しています。またコレッリは、アントニオ・ヴィヴァルディに最も影響を与えた人物でもあります。
合奏協奏曲
トレッリ(1658-1709)
ジュゼッペ・トレッリ(Giuseppe Torelli, 1658年4月22日ヴェローナ - 1709年2月8日ボローニャ)は、イタリア盛期バロック音楽の作曲家・ヴァイオリニストです。《合奏協奏曲 作品8》や《トランペット協奏曲》、《トランペット・ソナタ》で有名です。
合奏協奏曲
Torelli - Concerto grosso Op.8 No.5 in G Major -
スカルラッティ,アレッサンドロ(1660-1725)
アレッサンドロ・スカルラッティ(Alessandro Scarlatti, 1660年5月2日シチリア島 - 1725年10月24日ナポリ)はバロック期のイタリアの作曲家です。特にオペラとカンタータで著名で、オペラにおけるナポリ楽派の始祖と考えられています。スカルラッティの音楽は、フィレンツェ、ヴェネツィア、ローマを中心として発展した17世紀の初期バロックにおけるイタリアの声楽様式と、モーツァルトで全盛を極める18世紀の古典楽派との橋渡しとして位置付けられます。
クープラン(1668-1733)
フランソワ・クープラン(François Couperin, 1668年11月10日パリ - 1733年9月11日同地)は、バロック時代のフランスの作曲家です。多くの音楽家を輩出したクープラン家の中でも特に有名な人物であり、大クープラン (Couperin le Grand) として知られています。彼の作品の中で主要な位置を占めるのは4巻のクラヴサン曲集であり、アルマンドやクーラントといった一般的な舞曲よりも、優雅で象徴的な題名を持つ描写的な作品がその多くを占めています。
クラヴサン曲集
クープラン, フランソワ: クラヴサン曲集 第1巻 第1組曲,No.1 14. 13.ブルボン家の女(ガヴォット) Pf.村井頌子:Shoko,Murai
ヴィヴァルディ(1678-1741)
アントニオ・ルーチョ・ヴィヴァルディ(Antonio Lucio Vivaldi, 1678年3月4日ヴェネツィア - 1741年7月28日ウィーン)は、バロック後期の作曲家でヴァイオリニストです。とくに多数の協奏曲の作曲家として知られています。ヴィヴァルディ自身は独奏協奏曲の形式を考案した人物ではありませんが、彼の作品が国際的に有名になり、多くのドイツの作曲家がヴィヴァルディの形式で協奏曲を書くようになったために、独奏協奏曲の形式を確立した人物として評価されています。古典派の協奏曲はヴィヴァルディの影響を多分に受けています。
協奏曲集《四季》
テレマン(1681-1767)
ゲオルク・フィリップ・テレマン(Georg Philipp Telemann、1681年3月14日 - 1767年6月25日) は、後期バロック音楽を代表するドイツの作曲家です。18世紀前半のヨーロッパにおいては随一と言われる人気と名声を誇り、クラシック音楽史上もっとも多くの曲を作った作曲家として知られています。同時代の作曲家であったゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルとはライプツィヒ大学時代からの友人で頻繁に手紙のやり取りをしていたほか、ヨハン・ゼバスティアン・バッハとも親密な交友関係にあり、バッハの次男カール・フィリップ・エマヌエルの名付け親にもなっています。
Telemann: Tafelmusik (Selection)
ラモー(1683-1764)
ジャン=フィリップ・ラモー(Jean-Philippe Rameau, 1683年9月25日 - 1764年9月12日)は、バロック時代のフランスの作曲家・音楽理論家です。和声法と調性を体系的に理論化した最初の音楽理論家としても有名です。和音や和声を意味するハーモニーという用語は、ラモーの著作に見ることができます。
クラヴサン曲集
Rameau: Clavecin Suite in D major, Meyer (1953) ラモー クラヴサン曲集組曲ニ長調 メイエ
ヘンデル(1685-1759)
ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(Georg Friedrich Händel、1685年2月23日 - 1759年4月14日)は、ドイツ出身で、主にイギリスで活躍し、イギリスに帰化した作曲家です。バロック音楽における最も重要な作曲家のひとりであり、特にイタリア語のオペラ・セリアや英語のオラトリオの作曲によって知られています。ヘンデルは生前から高く評価され、没後もすぐに神格化され、名声が没後も衰えなかった最初の作曲家でした。
歌劇《リナルド》から私を泣かせてください
G. F. Händel, Lascia Chio pianga. Soprano; Julia Lezhneva
歌劇《セルセ》からオンブラ・マイ・フ
Andreas Scholl: Largo di Handel : Ombra mai fu : Aria da Xerxes HWV 40 countertenor Bonazeta YT
水上の音楽
G. F. HÄNDEL - Water Music - Trevor Pinnock, The English Concert
バッハ,ヨハン・ゼバスティアン(1685-1750)
ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(Johann Sebastian Bach, 1685年3月31日 - 1750年7月28日)は、18世紀のドイツで活躍した作曲家・音楽家です。 バロック音楽の重要な作曲家の一人で、鍵盤楽器の演奏家としても高名であり、当時から即興演奏の大家として知られていました。バッハはバロック音楽の最後尾に位置し、それまでの音楽を集大成した人物として評価されますが、西洋音楽の基礎を構築した作曲家でもあり「音楽の父」とも称されています。
古典派
バッハ,カール・フィリップ・エマヌエル(1714-1788)
カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ (Carl Philipp Emanuel Bach, 1714年3月8日 ヴァイマル - 1788年12月14日 ハンブルク)はドイツの作曲家です。ヨハン・ゼバスティアン・バッハが最初の妻マリア・バルバラともうけた次男です。父よりも、父の友人であったゲオルク・フィリップ・テレマンの作曲様式を受け継ぎ、ギャラント様式や多感様式を追究して、古典派音楽の基礎を築きました。
ハイドン(1732-1809)
フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(Franz Joseph Haydn, 1732年3月31日 ニーダーエスターライヒ州 - 1809年5月31日 ウィーン)は、古典派を代表するオーストリアの作曲家です。また、弟ミヒャエル・ハイドンも作曲家として名を残しています。数多くの交響曲、弦楽四重奏曲を作曲し、交響曲の父、弦楽四重奏曲の父と呼ばれています。ハイドンの作品はほぼ全てのジャンル(オペラから民謡の編曲に至るまで)を網羅しており、膨大な作品の総数はおよそ1000曲にも及ぶとされています。
ゴセック(1734-1829)
フランソワ=ジョゼフ・ゴセック(François-Joseph Gossec,1734年1月17日 - 1829年2月16日)は、フランスで活躍したベルギー出身の作曲家・指揮者です。長い生涯のうちに、バロック音楽の終焉から初期ロマン派音楽の勃興までに遭遇した音楽家です。現在ではヴァイオリンのための小品「ガヴォット」によって知られているのみですが、交響曲の大家で30曲近くを書いており、「フランス交響曲の父」としての業績があります。またパリ音楽院が創立された際には、作曲の分野における教授として招かれ、教育家としての実績もあります。
サリエリ(1750-1825)
アントニオ・サリエリ(Antonio Salieri、1750年8月18日 - 1825年5月7日)はイタリアのレニャーゴに生まれウィーンで没した作曲家です。生前は神聖ローマ皇帝・オーストリア皇帝に仕えるカペルマイスター(宮廷楽長)としてヨーロッパ楽壇の頂点に立った人物であり、またベートーヴェン、シューベルト、リストらを育てた名教育家でもありました。
モーツァルト(1756-1791)
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart、1756年1月27日 - 1791年12月5日)はオーストリアの音楽家です。ハイドン、ベートーヴェンと並んで古典派を代表する一人です。モーツァルトの作品には、当時流行していたロココ様式あるいはギャラント様式と呼ばれる、長調で装飾音の多い軽快で優美な曲が多いのが特徴です。作品総数は断片も含めると900曲以上にも及び、声楽曲(オペラ、教会用の宗教音楽、歌曲など)と器楽曲(交響曲、協奏曲、室内楽曲、クラヴィーアソナタなど)のあらゆるジャンルにわたっています。
ドヴィエンヌ(1759-1803)
フランソワ・ドヴィエンヌ(François Devienne, 1759年1月31日 - 1803年9月5日)は、18世紀フランスの作曲家・木管楽器奏者でパリ音楽院のフルート教授を務めました。約300曲に上る器楽曲は、ほとんどが管楽器のために作曲されており、10曲ほどのフルート協奏曲と4曲のファゴット協奏曲、吹奏楽のための交響曲、様々な楽器のための三重奏曲や四重奏曲があります。その優雅な旋律様式から「フランスのモーツァルト」と呼ぶ向きもあります。
ベートーヴェン(1770-1827)
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven、1770年12月16日ごろボン - 1827年3月26日ウィーン)は、ドイツの作曲家、ピアニストです。音楽史上極めて重要な作曲家の一人であり、日本では「楽聖」とも呼ばれています。その作品は古典派音楽の集大成かつロマン派音楽の先駆けとされ、後世の音楽家たちに多大な影響を与えました。
フンメル(1778-1837)
ヨハン・ネポムク・フンメル(Johann Nepomuk Hummel, 1778年11月14日 ポジョニ - 1837年10月17日 ヴァイマル)はハンガリー(現在はスロヴァキアの領地)出身のオーストリア系作曲家、ピアニストです。指揮者で弦楽器奏者でもあった父・ヨハネスに音楽の手ほどきを受け、8歳のときウィーンへ移り、モーツァルトの家に住込みで2年間に渡ってピアノを師事しました。ウィーン音楽院ではアルブレヒツベルガーに対位法、サリエリに声楽作品、ハイドンにオルガンを学び、またベートーヴェンと親交を結んでいます。
パガニーニ(1782-1840)
ニコロ・パガニーニ(Niccolò(あるいはNicolò) Paganini, 1782年10月27日 - 1840年5月27日)はイタリアの作曲家、ヴァイオリニスト、ヴィオリスト、ギタリストでもあります。特にヴァイオリンの超絶技巧奏者として名高く、「ヴァイオリンの鬼才」とも称されます。初恋に破れ沈んでいた20歳のリストが、パガニーニの演奏を聞いて「僕はピアノのパガニーニになる!」と奮起して超絶技巧を磨いたという逸話があるそうです。
クーラウ(1786-1832)
フリードリヒ・クーラウ(Daniel Friedrich Rudolph Kuhlau, 1786年9月11日ハノーファー - 1832年3月12日コペンハーゲン)は、ドイツの作曲家です。フルートの作品を数多く作曲し、同時代の作曲家ベートーヴェンに作風が似ていたため「フルートのベートーヴェン」と呼ばれることもあります。「ピアノのためのソナチネ」は、ピアノ学習者により演奏される機会が多く現在も親しまれています。
ウェーバー(1786-1826)
カール・マリア・フリードリヒ・エルンスト・フォン・ウェーバー(Carl Maria Friedrich Ernst von Weber、1786年11月18日 - 1826年6月5日)は、ドイツのロマン派初期の作曲家、指揮者、ピアニストです。モーツァルトによるドイツオペラの伝統を継承し、自らの『魔弾の射手』によってドイツ・ロマン派のオペラ様式を完成し、ワーグナーへと流れを導いた作曲家として重要です。また、オーケストラの配置を現在に近い形に改めたり、指揮棒を初めて用いた人物としても知られています。モーツァルトの妻コンスタンツェは父方の従姉にあたります。
前期ロマン派
モシュレス(1794-1870)
イグナーツ・モシェレス(Ignaz Moscheles、1794年5月23日 - 1870年3月10日)は、チェコ出身の作曲家およびピアニストです。サリエリから作曲を習い、ウィーンではヴィルトゥオーゾを牽引する人物でした。ウィーン時代にモシェレスはベートーヴェンに会っており、良好な関係はベートーヴェンの死に至るまで続きました。また当時15歳だったフェリックス・メンデルスゾーンにレッスンを施しており、親密な付き合いは1847年にメンデルスゾーンが没するまで続きました。
シューベルト(1797-1828)
フランツ・ペーター・シューベルト(Franz Peter Schubert、1797年1月31日 - 1828年11月19日)は、オーストリアの作曲家です。各分野に名曲を残していますが、とりわけドイツ歌曲において功績が大きく、歌曲の王と呼ばれることもあります。音楽史的には古典派とロマン派の橋渡し的位置にあります。シューベルトがのちの作曲家に与えた影響は大きく、シューマン、メンデルスゾーン、ブラームス、ブルックナー、ドヴォルザークなどが、彼の音楽を愛しその影響を受けています。
ベルリオーズ(1803-1869)
ルイ・エクトル・ベルリオーズ(Louis Hector Berlioz、1803年12月11日 - 1869年3月8日)は、フランスのロマン派音楽の作曲家です。楽器編成の大規模な拡張や、色彩的な管弦楽法によってロマン派音楽の動向を先取りしました。ベルリオーズは文学に激しい愛着を寄せており、彼の最も優れた楽曲の多くは文学作品に触発されています。生前のベルリオーズは、作曲家としてよりは指揮者として有名であり、リストのピアノ協奏曲第1番の初演なども指揮しています。
ブルグミュラー(1806-1874)
ヨハン・フリードリヒ・フランツ・ブルクミュラー(Johann Friedrich Franz Burgmüller, 1806年12月4日 - 1874年2月13日)は、ドイツ生まれの作曲家・ピアニストで、日本では入門期のピアノ教則本「易しく段階的な25の練習曲 作品100」などでよく知られています。ドイツのレーゲンスブルクで生まれましたが、1832年以降はパリを中心に活動しました。
メンデルスゾーン(1809-1847)
ヤーコプ・ルートヴィヒ・フェーリクス・メンデルスゾーン・バルトルディ(Jakob Ludwig Felix Mendelssohn Bartholdy, 1809年2月3日ハンブルク - 1847年11月4日ライプツィヒ)は、ドイツ・ロマン派の作曲家、指揮者、ピアニスト、オルガニストです。幼少期から神童として優れた音楽の才能を示しました。またメンデルスゾーンは著名な指揮者として自作や他の作曲家の作品を演奏しており、彼の指揮を称賛していたベルリオーズは、1843年に彼をライプツィヒに招いて互いに指揮棒を交換しています。
ショパン(1810(09?)-1849)
フレデリック・フランソワ・ショパン(Frédéric François Chopin;Fryderyk Franciszek Chopin、1810年3月1日(2月22日(出生証明の日付)、1809年3月1日説もあり)- 1849年10月17日)は、ポーランドの前期ロマン派音楽を代表する作曲家です。当時のヨーロッパにおいてもピアニストとして、また作曲家として有名でした。その作曲のほとんどをピアノ独奏曲が占め、ピアノの詩人とも呼ばれています。様々な形式・美しい旋律・半音階的和声法などによってピアノの表現様式を拡大し、ピアノ音楽の新しい地平を切り開きました。
シューマン(1810-1856)
ロベルト・アレクサンダー・シューマン(Robert Alexander Schumann, 1810年6月8日 - 1856年7月29日)は、ドイツ・ロマン派を代表する作曲家です。ベートーヴェンやシューベルトの音楽の後継者として位置づけられ、交響曲から合唱曲まで幅広い分野で作品を残しています。音楽評論活動も知られており、1832年にライプツィヒの「一般音楽新聞(Allgemeine musikalische Zeitung)」に投稿した「諸君、脱帽したまえ、天才だ」という有名な論文でショパン(1810年 - 1849年)を紹介しています。
ル・クーペ(1811-1887)
フェリクス・ル・クーペ(Félix Le Couppey, 1811年4月14日 - 1887年7月4日)は、フランスの音楽教師、ピアニスト、作曲家です。パリに生まれたル・クーペは、パリ音楽院でヴィクトル・ドゥルランに師事し、17歳になる頃には和声学の助教授になっています。1843年にはドゥルランの後任として和声学と伴奏でも教授になりました。彼の門下にはエドゥアール・バティスト、セシル・シャミナードらがいます。
後期ロマン派
リスト(1811-1886)
フランツ・リスト(Franz Liszt;Liszt Ferenc、1811年10月22日 - 1886年7月31日)は、王政ハンガリー出身で、現在のドイツやオーストリアなどヨーロッパ各地で活動したピアニスト、作曲家です。ピアニストとしては当時のアイドル的存在であり、女性ファンの失神が続出したという逸話が残っていますが、演奏活動のみならず教育活動においてもピアニズムの発展に貢献し、作曲家としては新ドイツ楽派の旗手、交響詩の創始者として知られます。娘のコジマは、指揮者ハンス・フォン・ビューローと、のちに作曲家リヒャルト・ワーグナーと結婚しています。
ワーグナー(1813-1883)
ヴィルヘルム・リヒャルト・ワーグナー(Wilhelm Richard Wagner、1813年5月22日 - 1883年2月13日)は、歌劇の作で知られる19世紀のドイツの作曲家、指揮者、思想家です。ロマン派歌劇の頂点であり、また「楽劇王」の別名で知られます。ほとんどの自作歌劇で台本を単独執筆しており、理論家、文筆家としても知られ、音楽界だけでなく19世紀後半のヨーロッパ文化に広く影響を及ぼした中心的文化人の一人でもありました。
ヴェルディ(1813-1901)
ジュゼッペ・フォルトゥニーノ・フランチェスコ・ヴェルディ(Giuseppe Fortunino Francesco Verdi、1813年10月10日 - 1901年1月27日)は、19世紀を代表するイタリアのロマン派音楽の作曲家であり、主にオペラを制作しました。「オペラ王」の異名を持ちます。歌手の技量に依存する度合いが高いベルカントに代わって劇を重視する作品構成の流れを作り、イタリア・オペラに変革をもたらしました。
グノー(1818-1893)
シャルル・フランソワ・グノー(Charles François Gounod、1818年6月17日 - 1893年10月18日)は、フランスの作曲家です。「フランス近代歌曲の父」とも呼ばれ、美しい旋律、色彩感に満ちたハーモニーを伴った優雅でやさしい音楽は今日も広く愛されています。グノーが楽長を務めていた聖歌隊に、のちに画家として著名になるピエール=オーギュスト・ルノワールが1850年頃から数年間所属していました。グノーはルノワールに声楽を教え、歌手としての才能を高く評価し、ルノワールの両親にオペラ座の合唱団に入れることを提案したほどでした。
ハノン(1819-1900)
シャルル=ルイ・アノン(Charles-Louis Hanon, 1819年7月2日 - 1900年3月19日)は作曲家、ピアノ教師、オルガニストです。日本ではハノンの呼び名で知られています。ピアノの教則本「60の練習曲によるヴィルトゥオーゾ・ピアニスト」が有名で、今日のピアノ教師にとって標準的な教材の一つとなっています。
ドップラー(1821-1883)
アルベルト・フランツ・ドップラー(Albert Franz Doppler;Doppler Albert Ferenc, 1821年10月16日 オーストリア帝国領ガリツィア・レンベルク - 1883年7月27日 バーデン・バイ・ウィーン)は、ハンガリー人の作曲家です。オーボエ奏者であった父親からフルートの指導を受け、18歳でブダペスト歌劇場の首席フルート奏者に就任、その後はウィーン宮廷歌劇場の首席フルート奏者から首席指揮者の地位へ昇り、1864年から1867年までウィーン音楽院のフルート科教授を務めました。生前はオペラやバレエなどの舞台音楽の作曲家としても知られていました。
フランク(1822-1890)
セザール=オーギュスト=ジャン=ギヨーム=ユベール・フランク(César-Auguste-Jean-Guillaume-Hubert Franck、1822年12月10日 - 1890年11月8日)は、ベルギー出身、フランスで活躍した作曲家、オルガニストです。フランクはベートーヴェン以降のドイツロマン派音楽、特に同時代のリストやワーグナーから強い影響を受けています。
ライネッケ(1824-1910)
カール・ハインリヒ・カーステン・ライネッケ(Carl Heinrich Carsten Reinecke, 1824年6月23日 アルトナ - 1910年3月10日 ライプツィヒ)は、ドイツロマン派の作曲家、ピアニスト、指揮者、教育者です。父親のルドルフは音楽理論や音楽教育書の著作を出していた高名な音楽教育者です。メンデルスゾーンやシューマンに師事し、フランツ・リストの娘達、ブランディーネとコジマにピアノのレッスンを施しています。ライプツィヒ音楽院の教授も務めており、門下生には、ブルッフ、グリーグ、ヤナーチェク、アルベニス、ワインガルトナーらがいます。
スメタナ(1824-1884)
ベドルジハ・スメタナ(Bedřich Smetana、1824年3月2日 - 1884年5月12日)は、チェコの作曲家・指揮者・ピアニストです。スメタナは、チェコの個性が現れた音楽を書いた最初の作曲家であるといわれ、チェコ国民楽派の開祖とされています。彼の歌劇の多くは、チェコの題材に基づいています。また彼は、チェコの民俗舞踊のリズムを多用し、その旋律は時として民謡を彷彿とさせ、同じ様にチェコの題材をその作品中に用いた作曲家アントニン・ドヴォルザークに大きな影響を与えました。
ブルックナー(1824-1896)
ヨーゼフ・アントン・ブルックナー(Joseph Anton Bruckner, 1824年9月4日 - 1896年10月11日) は、オーストリアの作曲家、オルガニストで、交響曲と宗教音楽の大家として知られています。一般的には後期ロマン派に位置づけられ、作曲技法的にはベートーヴェン、シューベルトの影響を、管弦楽法、和声法ではワーグナーの影響を受けているとされます。グスタフ・マーラー、フランツ・シュミットなどに影響を与えました。他方で、オペラや文学との接点の少なさという点で、後期ロマン派の中での特異性も指摘されています。
シュトラウス,ヨハン2世(1825-1899)
ヨハン・シュトラウス2世(Johann Strauss II. (Sohn), 1825年10月25日 - 1899年6月3日)は、ウィーンを中心に活躍した作曲家・指揮者です。生涯のほとんどをウィンナ・ワルツ、ポルカの作曲に捧げ、『美しく青きドナウ』『皇帝円舞曲』などの傑作を生み出しました。オーストリアのみならずヨーロッパ中で絶大な支持を獲得し「ワルツ王」「ウィーンの太陽」「ウィーンのもう一人の皇帝」などと呼ばれました。のちにオペレッタの分野にも進出し、傑作『こうもり』などを生み出し「オペレッタ王」とも呼ばれるようになりました。同時代に活躍した大多数の音楽家たちは、ヨハン2世を当代でもっとも優れた作曲家であると認めていました。
ランゲ(1830-1889)
グスタフ・ランゲ(Gustav Lange、1830年8月13日 - 1889年7月20日)は、ドイツの作曲家、ピアニストです。作品番号にして493の楽曲があり、その多くはピアノ独奏のためのサロン小品です。作風は大変ロマン的で、優雅で、軽快なものが多く、一般ピアノ愛好家たちの間で広くもてはやされ、ヨーロッパを中心に広く流行しました。《花の歌 Blumenlied》 作品39は現在に至るまで日本でも人気の高い作品です。
ブラームス(1833-1897)
ヨハネス・ブラームス(Johannes Brahms、1833年5月7日ハンブルク - 1897年4月3日ウィーン)は、19世紀ドイツの作曲家、ピアニスト、指揮者です。J.S.バッハ(Bach)、ベートーヴェン(Beethoven)と共に、ドイツ音楽における三大Bとも称されます。作風はおおむねロマン派音楽に属しますが、古典主義的な形式美を尊重する傾向もあります。ベートーヴェンの後継者ととらえる人もおり、指揮者ハンス・フォン・ビューローは彼の『交響曲第1番』を「ベートーヴェンの交響曲第10番」と評しました。ブラームスはロマン派の作曲家の中で最も古典派に近いと考えられており「新古典派」と呼ばれることもあります。
バダジェフスカ(1834(8?)-1861)
テクラ・ボンダジェフスカ=バラノフスカ(Tekla Bądarzewska-Baranowska、1834年/1838年 - 1861年9月29日)は、ポーランド出身の女性作曲家・ピアニストです。ボンダジェフスカ(バダジェフスカ)は本格的な音楽教育は受けていませんでしたが、サロンでのピアノ演奏家として活躍し自ら作曲も行っていたようです。1856年、18歳/22歳頃に作曲した『乙女の祈り』がパリの音楽ニュース雑誌に掲載され、その名が広く知られるところとなりました。この曲を含め小品を35曲ほど作曲したましたが、1861年に病弱のためにワルシャワにて23歳/27歳ほどで夭折、彼女に関する作品や資料の大半は第二次世界大戦等により消失したため、現在では『乙女の祈り』以外にはほとんど知られていません。
サン=サーンス(1835-1921)
シャルル・カミーユ・サン=サーンス(Charles Camille Saint-Saëns、1835年10月9日 - 1921年12月16日)は、フランスの作曲家、ピアニスト、オルガニストです。バロック音楽、古典派音楽に通じる一方、当時先進的とされたシューマンやリスト、ワーグナーの作品を擁護しました。晩年は保守的とみなされるようになり、公的には栄光を受けていたものの若い世代からは「形式主義的」で「絶望的に古臭い」と攻撃され、彼の影響を認める作曲家はラヴェルなどわずかでした。しかし第一次世界大戦以降の新古典主義音楽との共通点の指摘もあり、再評価されつつあります。
ビゼー(1838-1875)
ジョルジュ・ビゼー(Georges Bizet, 1838年10月25日 - 1875年6月3日)は、19世紀フランスの作曲家です。代表作に『カルメン』『アルルの女』などがあります。1861年にはリストの新作(リストは「この曲を正確に弾けるのは私とハンス・フォン・ビューローだけ」と豪語していました)のパッセージを一度聴いただけで演奏し、さらに楽譜を渡されると完璧に弾いてのけ、リストを驚かせたという逸話があり、この時、リストは「私は間違っていた。3人というべきでした。正確に言えば、最も若いあなたが最も奔放で輝かしいというべきでしょう。」といってビゼーを賞賛したとされています。
前期近代
ムソルグスキー(1839-1881)
モデスト・ペトローヴィチ・ムソルグスキー(Modest Petrovich Mussorgsky, 1839年3月21日 - 1881年3月28日)は、ロシアの作曲家で、「ロシア五人組」の一人です。「五人組」の中では、そのプロパガンダと民謡の伝統に忠実な姿勢をとり、ロシアの史実や現実生活を題材とした歌劇や諷刺歌曲を書きました。国民楽派の作曲家に分類され、管弦楽曲『禿山の一夜』、ピアノ組曲『展覧会の絵』などが代表作とされます。
チャイコフスキー(1840-1893)
ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー(Pyotr Ilyich Tchaikovsky、1840年5月7日 - 1893年11月6日)は、ロシアの作曲家です。作品は多岐にわたりますが、とりわけ後期の交響曲・バレエ音楽・協奏曲などが愛好されているほか、管弦楽曲、オペラ、室内楽曲、独奏曲にも人気作があります。
ドヴォルザーク(1841-1904)
アントニーン・レオポルト・ドヴォルザーク(Antonín Leopold Dvořák、1841年9月8日 - 1904年5月1日)は後期ロマン派におけるチェコ国民楽派を代表する作曲家です。ブラームスに才能を見いだされ、『スラヴ舞曲集』で一躍人気作曲家となりました。スメタナとともにボヘミア楽派と呼ばれています。その後、アメリカに渡り、音楽院院長として音楽教育に貢献する傍ら、ネイティブ・アメリカンの音楽や黒人霊歌を吸収し、自身の作品に反映させています。
グリーグ(1843-1907)
エドヴァルド・ハーゲルップ・グリーグ(Edvard Hagerup Grieg、1843年6月15日 - 1907年9月4日) は、ノルウェーの作曲家です。グリーグはノルウェーの民族音楽から着想を得た作品を多く残し、国民楽派の作曲家として注目されました。グリーグはとても小柄でしたが、生前は卓越したテクニックのピアニストとしても著名で、自作を携えヨーロッパをたびたび演奏旅行しています。終世、手のひらに乗るぐらいの小さな蛙の置物や子豚のぬいぐるみを大切にし、寝る時も一緒で、演奏会の時にはあがらないようにポケットの中で蛙の置物をそっと握りしめたそうです。
リムスキー=コルサコフ(1844-1908)
ニコライ・アンドレイェヴィチ・リムスキー=コルサコフ(Nikolai Andreyevich Rimsky-Korsakov, 1844年3月18日 - 1908年6月21日)はロシアの作曲家です。ロシア五人組の一人で、色彩感あふれる管弦楽曲や民族色豊かなオペラを数多く残しました。ロシアの民謡・文学を題材にした作品が多く残っています。管弦楽法の大家として知られ、その理論書である「管弦楽法原理」といった実践理論に関する著作をいくつか残し、なかでも和声学の教科書は日本でも広く知られました。
フォーレ(1845-1924)
ガブリエル・ユルバン・フォーレ(Gabriel Urbain Fauré、1845年5月12日 - 1924年11月4日)はフランスの作曲家です。フォーレは、リスト、ベルリオーズ、ブラームスらが成熟期の作品を生み出していたころに青年期を過ごし、古典的調性が崩壊し、多調、無調の作品が数多く書かれ、微分音、十二音技法などが試みられていた頃に晩年を迎えています。フォーレは音楽史上に残るような新たな様式を打ち立てたりはしていませんが、シャブリエとともに、ドビュッシー、ラヴェルへの橋渡しといえる存在であり、19世紀と20世紀をつなぐ役割を果たしています。
ヤナーチェク(1854-1928)
レオシュ・ヤナーチェク(Leoš Janáček、1854年7月3日 - 1928年8月12日)は、モラヴィア(現在のチェコ東部)出身の作曲家です。モラヴィア地方の民族音楽研究から生み出された、発話旋律または旋律曲線と呼ばれる旋律を着想の材料とし、オペラをはじめ管弦楽曲、室内楽曲、ピアノ曲、合唱曲に多くの作品を残しました。
モシュコフスキ(1854-1925)
モーリツ・モシュコフスキ(Moritz Moszkowski, 1854年8月23日 ヴロツワフ - 1925年3月4日 パリ)はポーランド出身のユダヤ系ピアニスト、作曲家、指揮者です。今日ではあまり有名とはいえませんが、生前は高い尊敬と人気を集めたピアニストでした。また、ピアノ学習者がショパンのエチュードの導入などに習う「15の熟練のための練習曲 15 Études de Virtuositié 作品72」の作曲者として名を知られています。
シャミナード(1857-1944)
セシル・ルイーズ・ステファニー・シャミナード(Cécile Louise Stéphanie Chaminade、1857年8月8日 - 1944年4月13日)は、フランスの作曲家・ピアニストです。出版作品と演奏活動によって経済的に自立した最初の女性作曲家といわれています。とりわけピアノ曲《スカーフの踊り》(Pas des écharpes)は世界的にヒットしました。生前の成功にもかかわらず、没後の20世紀後半は長らく忘れられていましたが、近年再評価が進んでいます。
エルガー(1857-1934)
サー・エドワード・ウィリアム・エルガー(Sir Edward William Elgar、1857年6月2日 - 1934年2月23日)は、イングランドの作曲家、指揮者です。もとは音楽教師でありヴァイオリニストでもありました。
プッチーニ(1858-1924)
ジャコモ・アントニオ・ドメニコ・ミケーレ・セコンド・マリア・プッチーニ(Giacomo Antonio Domenico Michele Secondo Maria Puccini、1858年12月22日 - 1924年11月29日)は、イタリアの作曲家です。その作品である『トスカ』、『蝶々夫人』、『ラ・ボエーム』などのオペラは今日でも上演の機会が多いことで知られています。音楽史上の位置付けは、ヴェルディ亡き後、19世紀末から20世紀初頭のイタリア・オペラにおける最高の作曲家というもので、イタリア・オペラの伝統にのっとり、劇的な展開と緻密な描写的表現、そのために繰り出される転調や印象主義音楽的な和声技巧、オーケストレーションの豊かさが特徴的ですが、とりわけ旋律の忘れがたい美しさは特筆に価します。
マーラー(1860-1911)
グスタフ・マーラー(Gustav Mahler、1860年7月7日 - 1911年5月18日)は、主にオーストリアのウィーンで活躍した作曲家・指揮者です。交響曲と歌曲の大家として知られています。マーラーの交響曲は大規模なものが多く、声楽パートを伴うものもあります。楽器に関しても、カウベル、鞭、ハンマー、チェレスタ、マンドリン、鉄琴や木琴など、当時としては使用されることが珍しかったものを多く採用しました。多くの作品において、調性的統一よりも曲の経過と共に調性を変化させて最終的に遠隔調へ至らせる手法(発展的調性または徘徊性調性:5番・7番・9番など)が見られ、晩年になるにつれ次第に多調・無調的要素が大きくなっていきました。
アルベニス(1860-1909)
イサーク・マヌエル・フランシスコ・アルベニス・イ・パスクアル(Isaac Manuel Francisco Albéniz y Pascual、1860年5月29日 - 1909年5月18日)は、スペインの作曲家・ピアニストです。スペイン民族音楽の影響を受けた作品で知られています。
ドビュッシー(1862-1918)
クロード・アシル・ドビュッシー(Claude Achille Debussy、1862年8月22日 - 1918年3月25日)は、フランスの作曲家です。長音階・短音階以外の旋法と、機能和声にとらわれることのない自由な和声法などを用いて独自の作曲を実行し、その伝統から外れた音階と和声の用い方から19世紀後半から20世紀初頭にかけて最も影響力を持った作曲家です。ドビュッシーの音楽は、代表作『海』や『夜想曲』などにみられる特徴的な作曲技法から、「印象主義音楽(印象派)」と称されることもありますが、本人は印象主義音楽という概念に対して否定的であり、テクスト(詞)やテーマの選択は象徴派(象徴主義)からの影響が色濃く反映されています。
シュトラウス,リヒャルト(1864-1949)
リヒャルト・ゲオルク・シュトラウス(Richard Georg Strauss、1864年6月11日 - 1949年9月8日)は、ドイツの後期ロマン派を代表する作曲家のひとりです。交響詩とオペラの作曲で知られ、また、指揮者としても活躍しました。ウィーンのヨハン・シュトラウス一族とは血縁関係はありません。初期には前衛的手法をとって調性音楽の限界を超えて無調音楽の一歩手前まで迫りましたが、当時興隆しつつあった新ウィーン楽派や新古典主義音楽などとは一線を画して後期ロマン主義音楽の様式に留まり続け、ロマン派最末期の巨星として評価されています。
後期近代
サティ(1866-1925)
エリック・アルフレッド・レスリ・サティ(Érik Alfred Leslie Satie、1866年5月17日 - 1925年7月1日)は、フランスの作曲家です。音楽界の異端児、音楽界の変わり者などと称されます。西洋音楽に大きな影響を与えたと見なされており、ドビュッシー、ラヴェルもその影響を公言しています。それまでの調性音楽のあり方が膨張していた時代に、彼は様々な西洋音楽の伝統に問題意識を持って作曲し続け、教会旋法を取り入れたり、1音符ごとに有効な臨時記号といった自由な調性感や、気紛れに変動する拍節による自由な拍子感など、革新的な技法を盛り込みました。
ジョプリン(1867(8?)-1917)
スコット・ジョプリン(Scott Joplin, 1867/1868年 - 1917年4月1日)はアメリカ合衆国のアフリカ系アメリカ人の作曲家、ピアノ演奏家です。ヨーロッパのクラシック音楽とアフリカ系アメリカ人のハーモニーとリズムを結びつけた「ラグタイム」で有名な演奏家・作曲家であり、「ラグタイム王」(King of Ragtime)と呼ばれています。
グラナドス(1867-1916)
エンリケ・グラナドス・イ・カンピーニャ (Pantaleón Enrique Joaquín Granados y Campiña、1867年7月27日 – 1916年3月24日)は、スペイン近代音楽の作曲家、ピアニストです。7歳年長のイサーク・アルベニス(1860年 – 1909年)とともに、スペイン国民楽派の旗手として並び立つ存在です。グラナドスの音楽は、ロマン主義と民族主義の二つの側面を持ち、シューマン、ショパン、グリーグらの音楽に強い影響を受けています。 また、印象派的な傾向ではドビュッシーからの影響も見られます。
スクリャービン(1872-1915)
アレクサンドル・ニコラエヴィチ・スクリャービン(Александр Николаевич Скрябин、1872年1月6日 - 1915年4月27日)は、ロシアの作曲家、ピアニストです。スクリャービンは、《法悦の詩》において調性音楽から離脱しましたが、これはドビュッシーが《前奏曲集 第1巻》においてフランス印象主義音楽の音楽語法を完成させ、またシェーンベルクが《弦楽四重奏曲 第2番》においてドイツ表現主義音楽の開拓に突入したのとほぼ同時期のことでした。この点をもってスクリャービンは、現代音楽の先駆者の一人とみなされています。
ラフマニノフ(1873-1943)
セルゲイ・ヴァシリエヴィチ・ラフマニノフ(Sergei Vasil'evich Rachmaninov、1873年4月1日 - 1943年3月28日)は、ロシア帝国出身の作曲家、ピアニスト、指揮者です。チャイコフスキーの薫陶を受け、モスクワ音楽院でタネーエフに学んだことから、モスクワ楽派(音楽院派、西欧楽派などとも)の流れを汲み、西欧の音楽理論に立脚した堅固な書法を特徴としました。一方で、親交のあったリムスキー=コルサコフの影響や民族音楽の語法をも取り入れて、独自の作風を築きました。ロシアのロマン派音楽を代表する作曲家の1人に位置づけられます。
シェーンベルク(1874-1951)
アルノルト・シェーンベルク(Arnold Schönberg、1874年9月13日 - 1951年7月13日)は、オーストリアの作曲家・指揮者・教育者です。 調性音楽を脱し無調に入り、十二音技法を創始したことで知られます。弟子のヴェーベルンが形式上の繰り返しを否定し変容を強調したのに対し、シェーンベルクは無調ながらもソナタや舞曲など従来の形式を踏襲しており、また初期の無調音楽は部分的には機能和声で説明できるものが多く、マーラーやツェムリンスキーなど高度に複雑化した和声によって調性があいまいになっていた後期ロマン派音楽の伝統と歴史の延長線上に位置づけることができます。
ホルスト(1874-1934)
グスターヴ・ホルスト(Gustav Holst、1874年9月21日 - 1934年5月25日)は、イギリスの作曲家です。最も知られた作品は、管弦楽のための組曲『惑星』ですが、全般的に合唱のための曲を多く遺しています。イングランド各地の民謡や東洋的な題材を用いた作品、また、吹奏楽曲などでも知られます。
ラヴェル(1875-1937)
ジョゼフ・モーリス・ラヴェル(Joseph Maurice Ravel、1875年3月7日 - 1937年12月28日)は、フランスの作曲家です。「オーケストレーションの天才」、「管弦楽の魔術師」と言われる卓越した管弦楽法と「スイスの時計職人」(ストラヴィンスキー談)と評された精緻な書法が特徴です。ラヴェル自身は、モーツァルトおよびクープランから強く影響を受けていると主張しており、またシャブリエ、サティの影響も挙げ、「グリーグの影響を受けてない音符を書いたことがありません」とも述べています。スペイン音楽・ジャズに加え、アジアの音楽および民謡を含む世界各地の音楽に強い影響を受けていたとされています。
クライスラー(1875-1962)
フリッツ・クライスラー(Fritz Kreisler, 1875年2月2日ウィーン - 1962年1月29日ニューヨーク)は、オーストリア出身の世界的ヴァイオリニスト、作曲家です。後にフランスを経てアメリカ国籍を取得しました。3歳の頃からヴァイオリンを習い始め、7歳で特例としてウィーン高等音楽院に入学してヨーゼフ・ヘルメスベルガー2世に演奏を、アントン・ブルックナーに作曲を学び、10歳にして首席で卒業しました。その後、パリ高等音楽院に入学、12歳にして首席で卒業しています。
ファリャ(1876-1946)
マヌエル・デ・ファリャ・イ・マテウ(Manuel de Falla y Matheu, 1876年11月23日 - 1946年11月14日)は、スペインの作曲家です。晩年にアルゼンチンに亡命しました。1907年から1914年までパリに滞在し、デュカスやアルベニス、ラヴェル、ドビュッシーらと親交を結びました。民族主義と印象主義の両方をバランスよく融和させた作品で知られます。
ゴーベール(1879-1941)
フィリップ・ゴーベール(Philippe Gaubert、1879年7月5日 - 1941年7月8日)は、フランスの音楽家です。フルートのヴィルトゥオーソや威厳ある指揮者として知られ、また主にフルート曲の作曲家として活躍しました。1919年からパリ・オペラ座の音楽監督に就任し、パリ音楽院フルート科の教授や、パリ音楽院管弦楽団の首席指揮者も務めました。作曲家として決して革新的ではありませんでしたが、フランクやドビュッシー、ラヴェルの試みをうまく取り入れています。
レスピーギ(1879-1936)
オットリーノ・レスピーギ(Ottorino Respighi, 1879年7月9日 – 1936年4月18日)は、イタリアの作曲家・音楽学者・指揮者です。前半生は演奏家、とりわけヴァイオリン奏者やヴィオラ奏者として活動しましたが、その後は作曲に転向しました。近代イタリア音楽における器楽曲の指導的な開拓者の一人として名高く、「ローマ三部作」と呼ばれる一連の交響詩(《ローマの噴水(Fontane di Roma)》、《ローマの松(Pini di Roma)》、《ローマの祭り(Feste Romane)》)が広く知られています。16世紀から18世紀の音楽に対する関心から、古楽に基づく作品も遺しました。
バルトーク(1881-1945)
バルトーク・ベーラ・ヴィクトル・ヤーノシュ(Bartók Béla Viktor János、1881年3月25日 - 1945年9月26日)は、ハンガリーに生まれ、アメリカ・ニューヨークで没したクラシック音楽の作曲家、ピアニスト、民俗音楽研究家です。作曲以外にも、民俗音楽学の祖の1人として東ヨーロッパの民俗音楽を収集・分析し、アフリカのアルジェリアまで足を伸ばすなどの精力的な活動を行いました。またフランツ・リストの弟子トマーン・イシュトバーン(1862年11月4日 - 1940年9月22日)から教えを受け、ドイツ・オーストリア音楽の伝統を受け継ぐピアニストでもあり、コンサートピアニストやピアノ教師としても活動しました。
コダーイ(1882-1967)
コダーイ・ゾルターン(Kodály Zoltán, 1882年12月16日 - 1967年3月6日)は、ハンガリーの作曲家、民俗音楽学者、教育家、言語学者、哲学者です。民謡についてまじめに取り組んだ初期の研究者として、コダーイは民俗音楽学の分野における重要人物のひとりです。僚友のバルトーク・ベーラと共に民謡集の出版を手がけています。自らの作品にも民謡の影響が色濃く現れています。
ストラヴィンスキー(1882-1971)
イーゴリ・フョードロヴィチ・ストラヴィンスキー( И́горь Фёдорович Страви́нский、1882年6月17日 - 1971年4月6日)は、ロシアの作曲家です。ロシアの芸術プロデューサーであるディアギレフから委嘱を受け作曲した初期の3作品(『火の鳥』、『ペトルーシュカ』、『春の祭典』)で知られるほか、指揮者、ピアニストとしても活動しました。20世紀を代表する作曲家の1人として知られ、20世紀の芸術に広く影響を及ぼした音楽家の1人です。
ヴェーベルン(1883-1945)
アントン・フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ヴェーベルン(Anton Friedrich Wilhelm von Webern, 1883年12月3日 - 1945年9月15日)は、オーストリアの作曲家、指揮者、音楽学者です。シェーンベルクやベルクと並んで新ウィーン楽派の中核メンバーであり、20世紀前半の作曲家として最も前衛的な作風を展開しました。生前は顧られる機会がほとんどありませんでしたが、戦後の前衛音楽勃興の中で再評価され、世界的に多くの作曲家に影響を与えました。
ベルク,アルバン(1885-1935)
アルバン・マリーア・ヨハネス・ベルク(Alban Maria Johannes Berg, 1885年2月9日 - 1935年12月24日)は、オーストリアの作曲家です。 アルノルト・シェーンベルクに師事し、アントン・ヴェーベルンと共に、無調音楽を経て十二音技法による作品を残しました。十二音技法の中に調性を織り込んだ作風で知られます。
プロコフィエフ(1891-1953)
セルゲイ・セルゲーエヴィチ・プロコフィエフ(Sergei Sergeevich Prokofiev、1891年4月23日 - 1953年3月5日)は、ロシアの作曲家、ピアニスト、指揮者です。初期には急進的な作風を取りましたが、長期の海外生活中の作品は次第に新古典主義的で晦渋なものとなっていきました。ソヴィエト連邦への帰国後は社会主義リアリズムの路線に沿った作風へと転換し、現代的感覚と豊かな叙情性を併せ持つ独自の境地へ到り、多くの傑作を生みだしました。
プロコフィエフ 交響曲第5番変ロ長調作品100 / アンドレ・ブレヴィン NHK交響楽団 (2010)
プロコフィエフ ピアノ・ソナタ 第7番 変ロ長調 リヒテル Prokofiev Piano Sonata No. 7 in B-Flat Major
プロコフィエフ: バレエ音楽「ロメオとジュリエット」第2組曲:モンタギュー家とキュピレット家[ナクソス・クラシック・キュレーション #ファンタジー]
オネゲル(1892-1955)
アルテュール・オネゲル(Arthur Honegger、1892年3月10日 - 1955年11月27日)は、主にフランスで活躍した作曲家で、フランス6人組の一人です。聖書や歴史上の人物を主題とした劇場作品や声楽入り作品を数多く残したほか、全5曲の交響曲、室内楽から映画音楽まで、幅広く作品を残しています。
ヒンデミット(1895-1963)
パウル・ヒンデミット (Paul Hindemith、1895年11月16日 - 1963年12月28日)は、ドイツ・ハーナウ出身の作曲家、指揮者、ヴィオラ奏者です。その他にもヴァイオリン、クラリネット、ピアノなど様々な楽器を弾きこなす多才な演奏家でもありました。第一次世界大戦後、ロマン派からの脱却を目指して新即物主義を推進し、20世紀ドイツを代表する作曲家として同時代の音楽家に強い影響を与えました。また生涯に600曲以上を作曲し、交響曲やオペラばかりではなく、オーケストラを構成するほぼすべての楽器のためのソナタを作曲しています。
ヒンデミット 交響曲 「画家マチス」 カラヤン / ベルリン・フィル Hindemith 〈Mathis der Maler〉
オルフ(1895-1982)
カール・オルフ(Carl Orff, 1895年7月10日 - 1982年3月29日)は、ドイツのミュンヘンに生まれ、同地で没した作曲家です。作曲家として独自性にこだわり、自身の音楽ジャンルを特定させない特異性を持っていました。自分の音楽劇を、しばしば『世界劇』(„Welttheater“又は „Theatrum Mundi“) と呼んでいました。
ガーシュウィン(1898-1937)
ジョージ・ガーシュウィン(George Gershwin、1898年9月26日 - 1937年7月11日)は、アメリカの作曲家です。ポピュラー音楽・クラシック音楽の両面で活躍しアメリカ音楽を作り上げた作曲家として知られます。独学でオーケストレーションを学びましたが、モーリス・ラヴェルに教えを請うた際に、ラヴェルから「あなたは既に一流のガーシュウィンなのだから、二流のラヴェルになる必要はないでしょう」と言われたといいます。
二十世紀
ロドリーゴ(1901-1999)
ホアキン・ロドリーゴ・ビドレ(Joaquín Rodrigo Vidre、1901年11月22日 - 1999年7月6日)は、スペインの作曲家です。幼児期に失明したにもかかわらず、芸術家として大成しました。数々の作品を通じてクラシック・ギターの普及に功があったとされ、とりわけ《アランフエス協奏曲》はスペイン近代音楽ならびにギター協奏曲の嚆矢とみなされています。本人はピアニストであり、ギターは演奏しませんでした。
アランフェス協奏曲 / ロドリーゴ作曲 / 全楽章 / ネヴィル・マリナー指揮
ショスタコーヴィチ(1906-1975)
ドミートリイ・ドミートリエヴィチ・ショスタコーヴィチ(Dmitri Dmitrievich Shostakovich、1906年9月25日 - 1975年8月9日)は、ソビエト連邦時代の作曲家です。交響曲や弦楽四重奏曲が有名です。シベリウス、プロコフィエフと共に、マーラー以降の最大の交響曲作曲家としての評価がほぼ確立され、世界的にも特に交響曲の大家と認知されています。また、弦楽四重奏曲においても秀逸な曲を残し、芸術音楽における20世紀最大の作曲家の一人です。
伊勢崎あすか幼稚舎 ショスタコーヴィッチ 交響曲第5番 革命
メシアン (1908-1992)
オリヴィエ=ウジェーヌ=プロスペール=シャルル・メシアン(Olivier-Eugène-Prosper-Charles Messiaen, 1908年12月10日 - 1992年4月27日)は、フランス、アヴィニョン生まれの現代音楽の作曲家、オルガン奏者、ピアニスト、音楽教育者です。20世紀前半から後半にかけてヨーロッパの現代音楽界を牽引した作曲家のひとりであり、加えて、多くの著名な子弟を育てた音楽教師として知られます。オルガニスト、ピアニストとしても長年演奏活動を続け、録音も数多く残しています。
Messiaen: Turangalîla-Sinfonie ∙ hr-Sinfonieorchester ∙ Paavo Järvi
Messiaen Quatuor pour la Fin du Temps(complete) 世の終わりのための四重奏曲 全曲
ケージ(1912-1992)
ジョン・ミルトン・ケージ・ジュニア(John Milton Cage Jr.、1912年9月5日 - 1992年8月12日)は、アメリカ合衆国出身の音楽家、作曲家、詩人、思想家、キノコ研究家です。実験音楽家として、前衛芸術全体に影響を与えました。独特の音楽論や表現によって音楽の定義をひろげ、「沈黙」を含めたさまざまな素材を作品や演奏に用いており、代表的な作品に『4分33秒』があります。
ブリテン(1913-1976)
ブリテン男爵エドワード・ベンジャミン・ブリテン(Edward Benjamin Britten, Baron Britten OM CH, 1913年11月22日 - 1976年12月4日 )は、イギリスの作曲家・指揮者・ピアニストです。代表作としては オペラ『ピーター・グライムズ』や『シンプル・シンフォニー』、『戦争レクイエム』、バロック期の作曲家ヘンリー・パーセルの劇音楽『アブデラザール』(Abdelazar) からの主題を引用した 『青少年のための管弦楽入門』 が知られています。
ピアソラ(1921-1992)
アストル・ピアソラ(Astor Piazzolla, 1921年3月11日 - 1992年7月4日)はアルゼンチンの作曲家、バンドネオン奏者です。タンゴを元にクラシック、ジャズの要素を融合させた独自の演奏形態を産み出しました。
Astor Piazzolla - Libertango (1977)